潜伏キリシタン・関連遺産
潜伏キリシタン・関連遺産
キリスト教が禁じられている中で、長崎と天草地方において日本の伝統的宗教や一般社会と共生しながら信仰を続けた潜伏キリシタンの信仰継続にかかる伝統のあかしとなる遺産群であり、潜伏キリシタンの伝統の歴史を語る上で必要不可欠な12の資産で構成されています。12の構成資産はそれぞれ潜伏キリシタンの信仰継続の歴史・伝統に沿って4段階に分類され、8市町に点在しています。
∼世界の宗教史上に残る劇的な「信徒発見」の舞台∼
居留地の外国人のために建設したゴシック調の国内現存最古の教会堂。1864年に建設、1865年に献堂され、直前に列聖されたばかりの日本二十六聖人に捧げられた。献堂直後に浦上の潜伏キリシタンが訪れ自分たちの信仰を告白した「信徒発見」の舞台である。
∼聖画像をひそかに拝み信仰を続けた∼
禁教期に小規模な潜伏キリシタンの信仰組織が連携し、聖画や教義書、教会暦などを密かに伝承し、自分たち自身で信仰を続けた集落である。解禁後は、段階的にカトリックへ復帰する者と禁教期の信仰形態を継続するもの(かくれキリシタン)に分かれた。
1882年にはド・ロ神父が集落を望む高台に出津教会堂を建てた。それは出津集落における「潜伏」が終わりを迎えたことを象徴している。
【集落内の教会】出津教会堂
∼神道の信仰を装いながら続けた信仰∼
禁教期に潜伏キリシタンが自分たち自身で組織的に信仰を続けている中で、氏子となった神社に密かに自分たちの信仰対象を祀り、オラショ(祈り)を唱えるなど在来宗教と信仰の場を共有していた集落である。
禁教期の信仰の場であった神社近くに、解禁後、大野教会堂が建てられた。
それは大野集落における「潜伏」が終わりを迎えたことを象徴している。
【集落内の教会】大野教会堂
∼仏教寺院でマリア観音に祈りを捧げた∼
禁教期に外海などから移住した潜伏キリシタンが、仏教寺院から信仰はを黙認されつつ、自分たち自身で組織的に信仰を続けた。
解禁後はカトリックへ復帰し、禁教期に宗教儀礼が行われた指導者の屋敷など2ヵ所を仮の聖堂としていたが、後に島の中心に自分たちの教会堂を建てた。それは黒島の集落における「潜伏」が終わりを迎えたことを象徴している。
【集落内の教会】黒島天主堂
∼禁教時代の潜伏キリシタンの集落の様相をとどめる歴史的景観∼
安満岳から伸びる尾根に挟まれた谷状の地形と海に囲まれた集落。指導者の家には「納戸」と呼ばれる部屋の中に、密かに潜伏キリシタンの信心具が伝承され、山岳など在来宗教の信仰の場や禁教以前にキリスト教徒の墓地があった丘などを聖地として密かに崇敬した。
∼殉教地として潜伏キリシタンから崇敬∼
中江ノ島は平戸島北西岸の沖合2キロに位置する長さ400m、幅50mの無人島であり、この島では、禁教時代初期に平戸藩による潜伏キ
リシタンの処刑が行われた記録がある。殉教地として潜伏キリシタンが密かに崇敬した。岩からしみ出す聖水を採取する「お水取り」が行われた聖地でもある。
∼人里離れた海の近い谷間に移住∼
禁教期に外海の潜伏キリシタンが、海に近い谷間に開けたわずかな平地に移住して固有の信仰形態を続けた。 解禁後はカトリックへ復帰し、禁教期以来の指導者の屋敷を「仮の聖堂」としていたが、やがて、湧水があり防風に優れた場所に木造の教会が建てられた。それは江上集落における「潜伏」が終わりを迎えたことを象徴している。
【集落内の教会】江上天主堂
∼未開の地で仏教徒との相互関係で守り続ける∼
五島列島南部にある久賀島。禁教期に外海から移住した潜伏キリシタンが、仏教集落と互助関係を築きながら自分たちで組織的に信仰を続け、「信徒発見」後の厳しい弾圧を乗り越えてカトリックに復帰し、海辺に教会を建てるに至りました。それは久賀島の各集落における「潜伏」が終わりを迎えたことを象徴しています。
【集落内の教会】旧五輪教会堂
∼自らのかたちで信仰をひそかに続けるきっかけとなった地∼
禁教初期に島原と天草の潜伏キリシタンが蜂起した「島原・天草一揆」の主戦場となった城跡である。この出来事は、幕府に大きな衝撃を与え、2世紀を超える海禁体制が確立されるとともに、残された潜伏キリシタンが、密かに自分たち自身で信仰を続けていく契機となった。多数の人骨に伴って出土した信心具は、禁教後も潜伏キリシタンが密かに信心具を保持し、組織的に結びついていたことを示している。
∼自らのかたちで信仰をひそかに続けるきっかけとなった地∼
禁教期に移住した潜伏キリシタンが、表向き海上交通の守り神である沖ノ神嶋神社の氏子を装うことで在来宗教と並存しながら自分たち自身で組織的に信仰を続けた。解禁後はカトリックへ復帰し、禁教期の指導者の屋敷を「仮の聖堂」として振興活動を続けたと考えられるが、その後、舟森集落には1881年、野首集落には1882年にそれぞれも木造教会堂が建てられた。それは野崎島の各集落における「潜伏」が終わりを迎えたことを象徴している。
【集落内の教会】旧野首教会
∼仏教徒の開拓地の指導によりできた集落∼
禁教期に外海の潜伏キリシタンが、仏教徒の開拓指導者のもと、無人島に移住・開拓し、自分たちで組織的に信仰を続けた。解禁後、カトリックへ復帰し、海に近い谷間の奥にある仮御堂跡に自分たちの教会堂を建てた。それは頭ヶ島の集落における「潜伏」が終わりを迎えたことを象徴している。
【集落内の教会】頭ヶ島天主堂
∼漁村特有の形態で信仰を続けた集落∼
禁教期に潜伏キリシタンが組織的に信仰を続ける中で、アワビやタイラギの貝殻内側の模様を聖母マリアに見立てて崇敬するなど漁村独特の信仰を育み、在来宗教と信仰空間を共有した集落であり、キリスト教解禁後は﨑津諏訪神社の隣に教会堂を建築した。
【集落内の教会】﨑津教会
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は、キリスト教が禁じられている中で、長崎と天草地方において日本の伝統的宗教や一般社会と共生しながら信仰を続けた潜伏キリシタンの信仰継続にかかわる伝統のあかしとなる遺産群です。
禁教期にもひそかに信仰を継続していた長崎と天草地方における、潜伏キリシタン独特の文化伝統の証拠であることを評価され、2018年7月、世界文化遺産へ登録されました。
— SILENCE —
原作 遠藤
監督 マーティン・スコセッシ
シーンでみるゆかりの地
— エリア1 —
AREA1
かくれキリシタンの里 トモギ村 のモデル 長崎市外海地区エリア
トモギ村
禁教期に外海地区の多くのキリスト教信徒たちは潜伏して信仰を守り続けた。『沈黙』に登場するかくれキリシタンの集落《トモギ村》は外海をモデルに創作された。原作者の遠藤周作はこの地を取材で訪れ、小説を書きあげた。映画の制作準備のためにスコセッシ監督も訪れた。
禁教期に日本人伝道士バスチャンが隠れ住んだとされる場所。現在の建物は伝承を後世に残すために建てられたものだが、ロドリゴが信徒たちにかくまわれた炭小屋はこのような場所だったのかもしれない。
日本人伝道士・バスチャンの師であるサン・ジワン神父を祀ってある、日本に三カ所しかないといわれるキリシタン神社。周囲はキリシタン墓地になっている。
禁教期に黒崎地区の潜伏キリシタンが密かに集まりオラショ(祈り)を捧げ伝習してきた聖地。迫害時代にキリシタンたちは「悲しみの節」の夜にここに来て、寒さに耐えこの岩影でオラショを唱えていたと伝えられている。
作家・遠藤周作の沈黙の碑には『人間がこんなに哀しいのに主よ海があまりに碧いのです』 と刻まれている。この碑の後方には、青い海と遠藤周作文学館を望むことができる。
1879年に潜伏キリシタンが多かった外海の出津・黒崎地区に赴任し生涯を外海に捧げたド・ロ神父が、風の強い斜面の台地に、1882年、私財を投じて建てた質実剛健な教会。
禁教期に潜伏キリシタンが自分たち自身で組織的に信仰を続ける中で、氏子となった神社に密かに自分たちの信仰対象を祀り、オラショ(祈り)を唱えるなど在来宗教と信仰の場を共有していた集落であり、信仰の場であった神社の近くに、解禁後、教会堂が建てられた。
遠藤周作がかくれキリシタンの取材で訪れたカトリック教会。聖堂は信徒によって一つひとつ積み上げた煉瓦で造られている。付属する鐘楼はかくれキリシタンの帰依を願って設置されたもの。
ド・ロ神父が女性の自立支援のための作業場として1883年に建て、織物、縫物、素麺などの食品加工などをおこなった施設。布教・生活向上の拠点として、様々な活動が行われた。
— エリア2 —
AREA2
長崎市中
奉行所の探索から逃れるため、トモギ村を出て山中を放浪していたロドリゴは、キチジローの裏切りにより役人に捕まる。長崎市中に連行されたロドリゴは、探しもとめていたかつての師であるフェレイラと再会するが、棄教後のフェレイラは沢野忠庵と名乗り奉行所で働いていた。
長崎奉行所でついにロドリゴは踏絵に足をかける。原作の奉行所は本博多町(現・万才町)とされるが、現在はここで立山役所の遺構と復元された建物を見ることができる。敷地内には遠藤周作が通ったレストラン「銀嶺」も移転され営業している。
1597年豊臣秀吉の命令により外国人宣教師6人と日本人信徒20人が処刑された丘。日本で信仰を理由に処刑された初めての殉教者たちのことは、ヨーロッパなどにも伝えられ、大きな反響を呼んだ。
外海地区の潜伏キリシタンの密かな祈りの対象であった≪雪のサンタ・マリア≫は映画に登場した。スコセッシ監督は教皇フランシスコとの謁見で≪雪のサンタ・マリア≫の複製画を寄贈した。
ポルトガル人を管理する目的で、幕府が有力者に命じてつくらせた人工島。これが「出島」である。映画では積荷の中に聖品が紛れていないか検査が行われた場所。
ロドリゴとフェレイラが再会するシーンのモデルとなった寺。フェレイラ(沢野忠庵)の誓書が書き添えられた「きりしたんころび証文」(県指定有形文化財)の書き損じが残されている。遠藤周作は証文を見にこの寺を度々訪れた。※証文は非公開
フェレイラ(沢野忠庵)の菩提寺。遠藤周作はこの寺と付近の静寂さを好み、原作で晩年のフェレイラが住んだ場所として描いた。
幕末の開国にともなって造成された長崎居留地の中に、在留外国人のために建設した中世ヨーロッパ建築を代表するゴシック調の国内現存最古の教会。1865年に献堂、直前に列聖されたばかりの日本二十六聖人に捧げられ、献堂直後に浦上の潜伏キリシタンが訪れ、信仰を告白した「信徒発見」の舞台である。
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AREA3
雲仙市 雲仙地獄エリア
沸き立つ地獄を前に、司祭は何を想うのか
江戸時代、キリスト教徒に対する弾圧は一層厳しくなり、「山入り」と称し、キリスト教信徒たちを雲仙地獄におくり、地獄責めをして改宗を迫った。
雲仙地獄
今も活発に噴気を上げている雲仙地獄。「お糸地獄」 、「大叫喚地獄」など、およそ30箇所の地熱地帯があり、地底から噴き出す蒸気と熱気で覆われる光景は、まさに地獄そのもの。映画ではフェレイラの眼前で見せしめの拷問が行われた場所。
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AREA4
五島エリア
明治初めの五島崩れの際、迫害を避けて船でしか行けない険しい断崖の洞窟に隠れたが、焚き火の煙を船に見つけられて捕縛され拷問を受けた。この洞窟は後にキリシタンワンドとよばれ、1967年入口に十字架と3mのキリスト像が設けられた。
五島藩と大村藩の間でおこなわれた集団移住政策により、1797年、外海から108人のキリシタンが六方の浜に着いた。
禁教令解禁後五島に初めて建てられた天主堂。長崎で殉教した二十六聖人の一人、ヨハネ五島の像が敷地内にある。現在はキリシタン資料館が開設され、キリスト教弾圧時の様子をうかがえる資料が展示されている。
十字架の墓標やマリア様を背にオレンジ色に染まる落陽は神秘的で美しい光景であり、厳しかった歴史とそれに立ち向かったキリシタンたちの強さを象徴しているかのように感じられる。
— エリア5 —
AREA5
平戸エリア
伝来の地。今も聖地を尊ぶ空気が受け継がれている
南蛮貿易によって栄えた平戸。イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが布教し、この地から長崎のキリスト教の歴史がはじまった。島全島がキリシタンと言うほど布教が広まり、20年ほどの間に5,000人のキリシタンがいたが、激しい弾圧により潜伏の時代がはじまる。キリシタンたちは独自の組織で信仰を守り通した。
かつて多くの殉教者を生んだ根獅子の浜。「昇天石」と呼ばれる小岩で多くのキリシタンが処刑されたと伝えられており、「殉教者たちがこの小岩から天国へ逝った」とのことから聖地として大切にされている。
多くの殉教者を出した根獅子の浜や、その殉教者たちを祀るおろくにん様などの聖地に取り囲まれるかたちで資料館が建てられており、納戸神やかくれ切支丹祭具などが展示され、密やかに守り抜かれた信仰の歴史を伝えている。
— エリア6 —
AREA6
南島原市エリア
繁栄の地、そして島原の乱
キリシタン大名である有馬晴信の対外的な力を表しキリスト教の繁栄とされている日野江城。それからわずか73年後、キリシタンによる幕府へ重税、飢饉の憎しみにより一揆が勃発。16歳の少年天草四郎を総大将に原城に一揆軍が立て籠もったが、一人を除き皆殺しとなりキリスト教の時代は幕を閉じた。
禁教初期に島原と天草の潜伏キリシタンが蜂起した「島原・天草一揆」の舞台。多数の人骨に伴って出土した信心具は、禁教後も潜伏キリシタンが密かに信心具を保持し、組織的に結びついていたことを示している
一時は肥前国に広域な勢力を伸ばした有馬氏の居城跡。大手門付近などに石垣が残る。近年の発掘で、キリシタンとなった有馬義貞・晴信の時代の状況をかたる仏式の墓石等も利用して作った階段遺構などが発見された。
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AREA7
大村エリア
日本最初のキリシタン大名大村純忠が治めていた大村領では、領主の改宗によって、領民たちもキリスト教を信仰するようになった、純忠が長崎などをイエズス会に寄進したため、長崎は「小ローマ」と呼ばれるまでにキリスト教文化が栄えたが、純忠の死後、息子は改宗。厳しい弾圧のなかでも、キリスト教を守り続けるキリシタンたちがいたが、捕らえられ、多くの信徒が処刑された。
大村藩の菩提寺。大村領では、キリシタン大名大村純忠の時代に領内のほとんどの神社仏閣が破壊されたが、禁教となり、棄教した証として最初に建てられた寺院。6mを越す巨大な墓石は、幕府の禁教政策のもと、仏教を信仰している証として、建てられたといわれている。
遠藤周作が1966年に書き下ろした小説「沈黙」は17世紀の史実・歴史文書に基づいて創作された歴史小説です。江戸時代初期のキリシタン弾圧の渦中におかれたポルトガル人の司祭を通じて神と信仰の意義が描かれています。マーティン・スコセッシ監督により映画化されました。長崎県には映画の舞台にもなった黒崎教会や監督がシナリオハンティング(台本作り)のために視察した遠藤周作文学館があります。美しい大海原の傍らに佇む信仰と愛に満ちたキリシタンの町。今もその面影が見え隠れしています。遠藤周作も魅せられた町で深い信仰にふれてみませんか。
信徒たちにかくまわれた炭小屋はこのような場所だったのかもしれない
禁教令により外海地方の神父がすべて追放された後、日本で洗礼名をバスチャンという伝道者がこの地方のキリシタン達を指導したと言われる。バスチャンは追手を逃れるため隠れ家を転々としたと伝えられており、この地もその一つとされる。現在の建物は伝承を後世に残すために建てられたもの。
角力灘を望む赤レンガ造りの教会
フランス出身のド・ロ神父が設計したロマネスク様式の教会は、赤レンガとステンドグラスが印象的です。教会がある場所からは、角力灘の青い海を望むことができ、展望のよさも魅力。
サン・ジワン神父を祀った神聖な場所
日本人伝道師・バスチャンの師であるサン・ジワン神父を祀ってある、日本に三カ所しかないといわれるキリシタン神社。周囲はキリシタン墓地になっている。ここは江戸時代、黒崎地方の隠れ(潜伏)キリシタンが密かに集まりオラショ(祈り)を捧げ伝習してきた聖地。祠の手前にある“祈りの岩”と名付けられた大きな岩があるが、迫害時代にキリシタンたちは悲しみ節の夜にここに来て、寒さに耐えこの岩影でオラショを唱えていたと伝えられている。静寂に包まれた神聖な雰囲気漂う場所だ。市指定史跡。
外海地区の歴史と文化を伝える資料館
外海地区の長い歴史、先人達の足跡や暮らしぶりを伝えることを目的に設置された。歴史・民俗・考古・産業・宗教・姉妹都市に関する数多くの資料を展示。特にマリア観音など隠れキリシタンに関する資料が豊富に揃っている。
遠藤周作の沈黙の碑
出津文化村の入り口からすぐの場所にあるのが、外海を舞台に描かれた小説『沈黙』で知られ、外海地区東出津町に文学館を構える作家・遠藤周作の沈黙の碑。『人間がこんなに哀しいのに主よ海があまりに碧いのです』と刻まれている。この碑の後方には、青い海と遠藤周作文学館を望むことができる。
外海の人々のために尽くした神父の足跡を展示
明治12年(1879)外海地方の主任司祭として赴任してきたフランス人宣教師マルコ・マリ・ド・ロ神父は、深い人類愛の精神とすばらしいフロンティア精神をもって、外海の人々の魂と肉体の救いのため生涯を捧げた。ド・ロ神父記念館は、神父の遺徳をしのび、すばらしい業績を顕彰するために設けられたものだ。
記念館は明治18年(1885)に神父自らいわし網工場として設計、施工したものでその後、保育所として使用された。昭和42年(1967)に県指定文化財になり、翌年にド・ロ神父記念館として開館した。さらには平成15年(2003)に旧出津救助院の一部として国の重要文化財に指定された。建物は、木骨煉瓦造、平屋建てで、上屋に洋小屋組(キングポストトラス)の屋根を架けた明治時代の洋風建造物としては特異な建物である。内部には宗教関係や医療、土木、建築など神父がこの地で行った様々な事業に関する品物が収められている。
ド・ロ神父が困窮を極める村人達を救うため、私財を投じて設立した明治初期の授産・福祉施設
ド・ロ神父が女性の自立支援のための作業場として1883(明治16)年に建て、織物、縫物、素麺などの食品加工などをおこなった施設
※授産場
救助院の中心施設的建物で、1883年に建設された。木造2階建てで、1階は作業場、2階は修道女の生活の場などに使用されていた。1階外壁には目地に赤土を混ぜた漆喰を使用した、通称「ド・ロ壁」と呼ばれる石積みが用いられている。
※マカロニ工場
授産場の東側の道沿いにある煉瓦造り、切妻(きりづま)造、桟瓦(さんがわら)葺の建物で、マカロニ製造を目的として建てられたといわれる。隣接して、通称「ド・ロ壁」の石積壁がある。
※鰯網工場
1885年建設の木骨煉瓦造り、平屋建の建物で、婦女子の副業として当時盛んであった鰯網の工場として建てられた。その後、工場は廃止され保育施設として利用されたが、現在はド・ロ神父記念館として活用されている。
2007年に始まった保存修理工事を終え、ド・ロ神父と当時の人々の仕事を体験できる場となりました。布教・生活向上の拠点として、様々な活動を行われた場所です。来て、見て、体験して、ド・ロ神父の精神に触れてみてください。
ド・ロ神父が建てた白亜の教会
強い海風を考慮した、低く堅牢な作りが特徴。鐘楼の鐘は神父がフランスから取り寄せたものだそうで、今も美しい鐘の音を響かせています。映画「解夏」の撮影が行われたことでも有名。
※出津教会堂の見学は原則として
長崎の教会群インフォメーションセンターへの事前連絡が必要です。
[TEL]095-823-7650
多くの信徒とともに眠る
平石を積み上げた石段や石塀が中世のお城を思い起こさせる、野道キリシタン墓地。キリシタンの墓碑がずらりと並んだ一角に、出津を深く愛したド・ロ神父の墓が立っています。
遠藤周作の生涯や足跡を紹介する資料館
館内には、生前の遠藤周作が使用していたデスクや筆記用具、生原稿といった貴重な遺品も展示。ここで執筆する姿が目に浮かぶようだと、全国から多くのファンが訪れています。
わざわざ行きたい絶景の夕陽
晴れた日には五島列島まで見渡せる絶景スポット。特にここから見る夕景は長崎屈指の素晴らしさと大評判!刻々と空が赤く染まっていく様子は何ともロマンチックで、ため息が出るほどの美しさなのです。
「沈黙」の舞台に立ち、「沈黙」の草稿をはじめ、肉筆資料や遺品など約3万点の資料を収蔵し展示している。
二十六聖人が殉教した西坂の丘に建つ資料館。ザビエルによる日本でのキリスト教布教から、弾圧の時代、二十六聖人の殉教、潜伏キリシタンの祈りから明治時代の信仰の復活までの歴史を、多数の資料で紹介している。
長崎奉行所立山役所の一部を復元整備した奉行所ゾーンでは、奉行所の役割や機能、奉行所をめぐる歴史的な事件、キリシタン関係資料などを展示している。
250年間のキリスト教の潜伏を支えた背景とキリスト教弾圧に至った経過、島原・天草一揆の状況をわかりやすく展示している。