1世紀後半のアナトリアは、住民のほとんどがキリスト教徒だったと言われています。
ローマ帝国の属州という地位の中で、4世紀以降はキリスト教の司教座が置かれ、カッパドキアファーザーズという3人の偉大な神学者で有名でした。また修道院活動が盛んになり、何百という洞窟修道院、教会がつくられ、内部は見事なフレスコ画などで彩られています。カイセリ海辺には、貧しい人々、病人のケアが行われる施設が造られました。 ペテロの手紙は1世紀のトルコ中央部アナトリア地方のカッパドキアにいる信者に向けた内容でもありました。手紙の内容から教会が激しい試練の中にあった事が伺えます。
“イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ…に散って寄留している人々へ
1ペテロの手紙1:1
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カッパドキアの特異な風景は、数億年前の火山噴火と風雨による浸食活動による自然の造形美です。岩を掘って壁を装飾したキリスト教のフレスコ画の数々や、また8、9世紀には地下8階に至るカイマクル地下都市に数万人もの人々が住んだと言われています。洞窟内の迷路には礼拝堂、寝室、厨房、食糧庫などが備えられていました。
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アンテオケはセレウコス朝シリアの首都であり大変繁栄し、またユダヤ人の大きな共同体があった町です。ペテロの洞窟教会は初期のキリスト教徒が密かに集まり礼拝していた場所と言われていますペテロは第1代目のアンテオケ教会の監督となり、パウロとバルナバはこの大教会から海外宣教の旅に送られました。また、町を流れるオロンテス川が地中海に注ぐ辺りには、パウロが船出したセルキアの港跡が残っています。
“バルナバはサウロを探しにタルソへ行き、彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。”
(使徒11:25-26)
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